2. 事務所創設~発展 そして戦火空白

石本喜久治年譜

世の中の動き 年代 年齢 事項
日本発の地下鉄が開通 1927 (昭2) 33 竹中工務店退社、片岡石本建築事務所創設 11月日本インターナショナル建築会第1回展覧会 【主な作品】東京朝日新聞社
1928 (昭3) 34 【主な作品】白木屋百貨店1期竣工、三宅やす子邸、山田白動車商会
世界大恐慌始まる 1929 (昭4) 35 「新建築」が「石本喜久治作品号」を発行 【主な作品】新日本証券、朝日新聞社員クラブ
1930 (昭5) 【主な作品】東郷青児邸、山叶商会
満州事変 東京羽田国際空港開港 1931 (昭6) 37 片岡石本建築事務所解散、石本建築事務所創設 【主な作品】白木屋百貨店2期竣工、朝日新聞社横浜支局、青木邸
満州国建国宣言 1932 (昭7) 12月白木屋火災 【主な作品】銀座パレス、やっこ食堂、東京国際飛行場事務所
国際連盟脱退 1933 (昭8) 【主な作品】小西邸、喫茶コンパル
室戸台風 1934 (昭9) 【主な作品】博多株式取引所
二・二六事件 1936 (昭11) 【主な作品】日本タイプライター社屋、小亀邸
日中戦争 1937 (昭12) 43 この頃 上海事務所(上海)、石本川合建築事務所(新京)開設 【主な作品】三井銀行福岡支店、白木屋大塚分店、丸柏百貨店、大森白木映画劇場、大分市役所庁舎、石本邸
国家総動員法公布 1938 (昭13) 【主な作品】料亭雪村、兼坂ビル
太平洋戦争開戦 1941 (昭16) 【海外での主な作品(竣工年未詳)】宝山デパート、上海居留民団女学校、上海第七日本国民学校、中華航空社屋

石本喜久治の生涯

1927:昭和2年3月(33歳)
東京朝日新聞社竣工
社内でコンペティションが行われ、石本喜久治案を含め4案のなかから、朝日の村山龍平社長が自ら選んだという。数寄屋橋の袂にある将棋の駒の各辺をさらに不揃いにしたような五角形の敷地に建設された、地下1階、地上8階、新聞社と展覧会場、大講堂でなる多機能のビルで、建築様式は「1900年以後の新様式綜合から国際建築様式への提案」としている。
1927:昭和2年夏(33歳)
竹中工務店退社、片岡石本建築事務所創設
ある日、たまたま東海道線の列車中で関西財界の名門で、当時その商工会議所会頭であり、 また自分と同じく京都市大工学部建築学科の講師でもあった片岡安工学博士と同車し、 その時、自分は竹中工務店をやめて京都帝大に行き学究になるべきか、また建築家として建築設計業界に進むべきか悩んでいるという話をしたら、博士は即座に「君は建築家として進むべきである、自分はできる限りの後援もするし、できれば建築事務所を共同経営してもよい」といわれ、ここで石本喜久治は先輩の片岡安と共同経営の片岡石本建築事務所を開設した。(「50年のあゆみ」) 創立記念日は白木屋地鎮祭を行った9月16日である。

1931:昭和6年(37歳)

石本喜久治の設計

白木屋百貨店全館竣工 石本建築事務所創設
白木屋全館の竣工後、片岡石本建築事務所を解散し、先生が単独で石本建築事務所をはじめられることになった。山口さんはその前に退所して渡独され、結局私ひとりだけが再採用ということになり、石本建築事務所所員第1号となった。先生と2人だけで始まった石本建築事務所は銀座交詢社の7階で、セットバックによってできた畳敷きにして約10帖の広さである。不景気な世相の影響で、当初は仕事も少なかった。(海老原一郎「50年の軌跡」)

1932:昭和7年(38歳)
白木屋の大火
12月16日、白木屋百貨店に火災が発生、交詢社の屋上からみる白木屋7階食堂まわりは黒煙に包まれている。おりから石本先生は大阪に出張中なので、伊藤君の革ジャンパーを借りて駆けつけた。この災害によって建築の区画、避難設備、消火設備などの法規の実施をみた。白木屋火災による改修工事は、事務所にとって大きな節となった。(海老原一郎「50年の軌跡」)

1937:昭和12年(43歳)
この頃 上海事務所(上海)、石本川合建築事務所(新京)開設
時代が戦争へと傾いていく中、順応性の機敏さと、時代先取りの特長を発揮していち早く軍施設への協力、軍需産業施設の設計協力へと移行していく。そして、戦禍が内地に波及し、いよいよ国土をあげて戦争は激烈となり、もはや軍民を問わず内地には通常の建築は皆無となるに及び、いち早く大陸に実質上の本拠を移し、当時の満州国新京(現長春)に川合貞夫と共同になる石本川合建築事務所を興し、一方上海にもブランチをおいて満州国をはじめとする北・中支の施設ならびに陸海軍の設計受注に専念して、ここに事務所の生きる道を求めた。(「50年のあゆみ」)
 

作品とエピソード

東京朝日新聞社

1927:昭和2年 SRC造、地下1階、地上8階 延3,978坪余 設計:竹中工務店
当時、石本先生は燃えてましてね。日本で初めてメンデルゾーンみたいな新しい建築をおれがやったんだ、という自負ですね。(山口文象「50年の軌跡」)

片岡石本建築事務所

創立時の逸話。「朝日新聞社の社屋ができあがりかけているとき白木屋の話がおきたんです。白木屋といえば、その時分じゃ相当大きなイベントですよ。いろいろな経過をへて、石本喜久治先生が設計を引きうけ、私がその下でチーフアーキテクトで、と決まったんです。竹中工務店に2人して辞表を出して、いよいよ白木屋をやろうということになったとき、石本建築事務所というものが発生したわけです。石本先生は、経営の能力といいますか、実業家的才能が非常にあるんですね。工学博士で建築界はもとより関西実業界でも相当顔のきいたかたであり、東京でもよく知られている片岡安先生を、ということから「片岡石本建築事務所」になったんですよ。」(山口文象「50年の軌跡」)

白木屋百貨店

(東京・日本橋)1928:昭和3年1期、1931:昭和6年2期 SRC造、地下2階、地上8階 延1,033坪
当時、石本先生は京都にお住まいで、事務所創立のいろいろなことをしておられたのでしょう。私のところへは、白木屋のプランやエレベーションのこんな小さなもので、200分の1だったかな、書いて送ってくるんです。それを忠実に100分の1にエンラージし先生のスケッチにあわせてエレベーションを整理しまとめてゆくんです。三越のように金をかけたクラシックでなく、金をかけないで日本橋や浅草、隅田川の向こう岸の人たち、つまり下町の人々を驚かせようというんで、アブストラクトのようなステンドグラスや、漆喰を打った上に金箔をつかってネ。まぁー相当苦労しましたよ。(山口文象「50年の軌跡」)

三宅やす子邸

(東京・世田谷)1928:昭和3年 木造、地上2階

「2階建の清新な住宅で、内部も亦清新の極致を示して居ます。意匠に現代フランス的な影響を認めますが、更にこれが理解されて、日本人的な洗練を経て居るのを見ます。これと同じ傾向のものに、山田自動車会社、エンパイヤ自動車商会があります。」岡田孝男『新建築』1929年1月号より。(50年の軌跡) 竣工後3ヶ月で説教強盗が入り、設計ミスでは?と話題になりました。(山口文象談1977年)

山叶商会

(東京・日本橋)1930:昭和5年RC造、地下1階、地上6階、576坪
その前年、山口(当時は岡村)さんの紹介で、山叶商会の社屋工事現場の実習生として夏休みの大半を過し、石本先生からステンドグラス、天井のモザイックや床の大理石のモザイックなどのデザインを命じられた。その殆どが実施に移されるという、一学生の身では考えられないチャンスに恵まれて大いに張切った結果、先生から入所の承認をいただいたのである。(海老原一郎「50年の軌跡」)

朝日新聞社員クラブ

(神奈川・鎌倉)1929:昭和4年 W造、地上2階、120坪

直線とアクセントとしての丸窓とで構成された彫りの深さと白い壁面との対比、吹抜け空間の壁にそってつくられた階段、またサソルームーや暖炉のあつかいなど、のちの住宅設計にしばしば用いられる手法が駆使されている。屋根は鋼板葺き、外壁はラスモルタルにドロマイト刷毛塗り仕上げ。(「50年の軌跡」) 当時は既製品が無かったので、家具、照明器具等全てをデザインした。(山口文象談1977年)

銀座パレス

(東京・銀座)1932:昭和7年
新橋のたもとの「銀座パレス」の設計はそのころの作品で、立地条件や夜の効果的な表現への興味やらで先生も意欲をもやされ2人で向きあってデザインをまとめあげた。外壁の輸入ガラス「ボルマライト」の使用やネオン塔は先生のアイデアであり、銀座通りに面する照明による造形は私の苦心の作品である。楽しい仕事ができたことで印象深い作品であるが、当時カラーフィルムのなかったことが今となって残念という外はない。(海老原一郎「50年の軌跡」)

博多証券取引所

(福岡)1936:昭和11年 RC一部S造、地下1階、地上2階、769坪

博多株式取引所は、その後の福岡銀行集会所と共に昭和10年 (1935)頃の事務所の代表的な作品といえると思う。いまはすでにないが、その塔と共に心に残る作品である。私は、この建築の透視図を4枚描いた。これは施主の要求に応じたためでなく、先生のその時点での心境から求められた表現の探求に対してであった。その決定案は、きめこまかいディテールの追求をともなっていた。(海老原一郎「50年の軌跡」)

石本喜久治の設計

先生の基本平面図の作成も独断場の感があった。「石本先生は夜はいくらでも働ける人であったらしい。新しい仕事にはまず、平面計画が必要である。朝出勤すると僕はよく、くしゃくしゃに書き込まれた一枚の方眼紙を渡された。アパート、デパート、オフィスビル或いは住宅も無論であるが兎に角地下最下階から地上最上階迄の略平面がその一枚の方眼紙にひと重ねに描き出されていた。各種の点線、破線、実線、赤または青の鉛筆が使い分けてあって『何は何階、これは何階』の指示通りに整理し図面化するのであった。そして先ず殆ど正確に考え抜かれていた。」という当時の所員大和田氏の文章通り、午前中先生の出所と共に手渡され、その後はすべて我々の手に移される作業となるのであった。(海老原一郎「50年の軌跡」) 設計に関しては分離派時代程強い主義主張はなかったようで、むしろ保守的実務的と見られるものが多く、設計はベテランを通じて比較的一任されていたようである。保守性の大切さを自覚するとともに、形の上のあそびを機能と合理性に結びつける努力がなされ、またこれら混迷の中にこれを決定づけるある種の権威を求めていたといえる。命ぜられた設計で先生の意図と違った自分のアイデアを出すと「こんな勝手なまねは許さん」ととがめられるので,「これはModerne Bauformenにのっていただれそれの手法です」というと、先生は黙ってしまうので時々この手を使ったものである。(武基雄「50年のあゆみ」)

日本タイプライター社屋

(東京・京橋)RC造、地下2階、地上9階、1,228坪
日本タイプライターから懸賞が出たんです。石本さんが嫌がるものですから、私が友だちの名前で出したら当選しちゃったんです。それで日本タイプライターの社長が石本さんに、海老原に設計させたいんだけれども、事務所として受けるかと言ったんです。そしたら石本さんは受けると答えたんです。それで私に全部やれと言って、家具から灯器具から一人でやりました。(海老原一郎「建築雑誌Vol.102,No.1258 1987年4月号」) なお、このコンペの審査員の一人は石本喜久治だったが、海老原の提案だとは気づかなかったという。

石本邸

(東京・五反田)1937:昭和12年 木造一部RC造、地下1階、地上2階 250㎡

石本喜久治自身の住宅は、2年間考えつづけられた結果であり、そのプランニングは最上のものであると信じる、と当人が力強く物語っていた。石本に愛されていた立原道造は、この設計にはかなり深く携っていたという。雑誌『新建築』1938年5月号は、書棚を有する張出しとそれを支える矩形の深い柱、二階バルコンの出、南側エレベーションのもつ風格をとりあげて、その紹介を次のように結んでいる。「総てが生き生きとした空間構成にまで親しみを持つ。甘さは全く影をひそめ、端正と清澄と一つの生命の営みが中に行く生活をも高めているかの様だ。建築家の家を多く吾々は見た、又建築家の設計した住宅も数しれず見た。だがアルバー・アルトー自身のホームを見た強い印象を石本邸に再び甦らし得た事を喜ぶものである」(50年の軌跡) 庭園の一角に巧みに配置された日時計の裏には、昭和14年春謹呈と刻まれ、箕浦実一、柳瀬駿、武基雄、立原道造はじめ19人の所員の氏名が誌されている。この日時計のみ、事務所に現存している。

上海居留民団女学校

昭和14年から有田、武、柳瀬3人で上海の事務所へ行き、向こうにいる間に居留民団の女学校、キャバレー、大日本航空の上海、南京支店、南京の白木屋、軍の施設等7件位の設計をしたものである。(武基雄「50年のあゆみ」)