3. 戦火の跡から 再スタート

石本喜久治年譜

世の中の動き 年代 年齢 事項
終戦 1945 (昭20) 51 長野八三二と共同経営事務所の経営を長野に託し、新日本住宅株式会社設立、社長に就任
1946 (昭21) 【主な作品】ディペンデントハウス代々木
日本国憲法施行 1947 (昭22)
建築基準法施行朝鮮戦争 1950 (昭25) 56 新日本住宅株式会社解散
【主な作品】十字屋楽器店、日本石油八重洲給油所
日米安全保障条約調印 1951 (昭26) 57 5月建築士法第4条に基づく一級建築士免許を受け、第01246号を以って登録9月一級建築士事務所株式会社石本建築事務所を創立、代表取締役所長に就任
【主な作品】工業繊維大阪支店
十勝沖地震 1952 (昭27) 【主な作品】森邸、博多大博劇場(改)
テレビ放送開始 1953 (昭28) 【主な作品】宇都宮市庁舎、足利市庁舎別館

石本喜久治の生涯

1945:昭和20年(51歳)
長野八三二と共同経営。事務所の経営を長野に託し、新日本住宅株式会社設立、社長に就任。
建築設計事務所の将来には悲観的で、むしろ焼土と化した都市には住宅の供給が最大の急務であるから住宅会社を創立したい、従って石本長野建築事務所とでも名称を変えてもよいから事務所を継続して欲しい、といわれた。(長野八三二「50年の軌跡」)

1950:昭和25年(56歳)
新日本住宅株式会社解散
新日本住宅株式会社は発足後1~2年間は順調に活躍し、戦後の庶民住宅供給に貢献したが、何といっても建設業には素人ばかりの会社で実際の工事ができるはずはなく、いくばくもなく破たんした。再び建築事務所を長野八三二との協同経営に専念することになった。(「50年のあゆみ」)

1951:昭和26年(57歳)
一級建築士事務所株式会社石本建築事務所と改称。代表取締役所長に就任。
所員全員のための事務所として、経営に所員の参加を求め株式を所員に公開、組織で経営していこうという理想のもと、創立25周年を機に法人化する。「自分は金融財閥に対する特殊関係が極めて弱く、この点事務所経営の面においては、将来とも諸君に迷惑と重荷をかける事を恐れる」と危惧していた。
 

作品とエピソード

株式会社石本建築事務所

建築事務所というものは、もはやその創設者たる一建築家の独創と独走のみによって支配しつづけられるのは一代限りであり、これからの設計対象が漸次大型化し、複雑化、多様化するに従って、将来はグループ化した組織体へ移行すべきであると考え、これまでの徒弟制度的な雇用関係から近代的雇用関係へ移行すること、運営する人的要素は変わっても設計事務所の組織体は永続するものではならないこと、この大きな結論に達し、ここに機構によって活動する建築事務所創設への意欲を燃やしていった。(「創立70年の歩み」)

十字屋楽器店

(東京・銀座)
1950:昭和25年
石本喜久治直筆のプラン
戦後の混乱時代を脱皮し始め、本格的な復興から、やがて戦後の建設への新時代に突入していくに及び、本来の設計監理業務への道を進むようになった。その再生のきっかけとなった業務のひとつである。建設中に米軍将校用クラブへの転用が決まったため、急遽日本的装飾が強調された。

工業繊維大阪支店

(大阪:船場)1951:昭和26年 RC造+S造、地下1階、地上4階 1,870㎡

半円形の柱による斬新な外装デザインは、大阪船場の中央だけに当時注目をあびた。

足利市庁舎別館

(栃木:足利)
1953:昭和28年
足利市は庁舎建設について設計者選定を建設省営繕局長に相談に行く。局長川合貞夫は石本の満州でのパートナーである。足利市は先ず石本を訪ねる。石本の長野専務は他の事務所に回らせず、設計委託を取りつけてしまった。これが、石本建築事務所が全国的に市庁舎の建築設計に覇を唱えるに至る最初のものであった。