4. 発展~多彩な展開を 全国に
石本喜久治年譜
世の中の動き | 年代 | 年齢 | 事項 |
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1954 (昭29) | 60 | 大阪石本建築事務所、北海道石本建築事務所設立 【主な作品】キャバレー美松 |
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日本住宅公団発足神武景気 | 1955 (昭30) | 【主な作品】長岡市庁舎、キャバレー美人座、日本住宅公団野毛山団地 | |
1956 (昭31) | 62 | 広島で心筋梗塞で倒れる 【主な作品】太田市庁舎、加茂市庁舎、日光南間ホテル、日本鉱業日立鉱業所事務所 |
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なべ底不況 | 1957 (昭32) | 63 | 大阪石本建築事務所と北海道石本建築事務所を吸収合併し、株式会社石本建築事務所代表取締役会長に就任 【主な作品】広島市民球場、旭川ニュー北海ホテル、アジア文化図書館 |
東京タワー完成 | 1958 (昭33) | 64 | 「近代建築設計の発展発達に多大の貢献をした功」により、藍綬褒章を受賞 【主な作品】長岡市厚生会館、富士吉田市庁舎、東京電力健保組合今井浜保養所 |
伊勢湾台風 | 1959 (昭34) | 【主な作品】松本市庁舎、三島市庁舎、日本通運東京病院、臨海ホテル | |
カラーテレビ放送開始 | 1960 (昭35) | 【主な作品】館山市庁舎 | |
柏鵬時代到来 | 1961 (昭36) | 67 | 石本建築事務所 福岡事務所を設立 【主な作品】丸善石油本社ビル、丸井新宿店、広島城、出雲市体育館、蒲郡市庁舎、聖三一教会 |
1962 (昭37) | 【主な作品】向島ベイボウル、上田市民会館、島田市庁舎、鈴鹿サーキット | ||
日米衛星放送開始 | 1963 (昭38) | 69 | 11月27日死去 【主な作品】リハビリテーションセンター鹿教湯病院、イースタンピル、ハタボーリングセンター |
石本喜久治の生涯
- 1954:昭和29年(60歳)
- 大阪石本建築事務所、北海道石本建築事務所設立。
- 石本建築事務所の業績、作品の分布が全国規模に拡大するに伴い、各地の需要に応えて、大阪、札幌、名古屋に支所を、福岡に事務所を開設することにした。当初はどれも別会社とし、開所時の経営的リスクを分散したが、その後、経営が安定すると、本社に合体させた。
- 1956:昭和31年(62歳)
- 心筋梗塞で倒れる。
- 創立30周年を迎えようとした時、広島県比治山の原爆慰霊堂の竣工式に出席中、心筋梗塞に倒れた。以後療養に努め、何度も入退院を繰り返す生活となった。しかし、石本喜久治は病床にあっても仕事の鬼でありつづけ、所員の指導に対しては厳格そのものであり、礼儀協調を重んずる訓育は日夜つづいたのである。
- 1957:昭和32年(63歳)
- 大阪石本建築事務所と北海道石本建築事務所を吸収合併し、 株式会社石本建築事務所代表取締役会長に就任。
- 再起不能の大病にさすがの先生も秘かに覚悟を定めたのか、その後は事務所の将来のために極力組織による運営を推進された。従来は設計事務所の先生が倒れると、その事務所は閉鎖し所員は四散したものであったが、先生は「これはいかぬことである。日本の建築技術のためにも安心して働けるようにせねばならぬ。これは先達としての義務である。」と常にいっていた。石本建築事務所は、わが国最初の法人組織の設計事務所として組織で経営していき、先生に万一のことがあっても、その組織ですすみ、所員は安心して技術に専念できるように組織の運営を改めていった。 (吉岡政男「50年のあゆみ」)
- 1958:昭和33年(64歳)
- 「近代建築設計の発展発達に多大の貢献をした功」により、藍綬褒章を受賞。
- 建築設計監理業界において常にリーダーシップを保持し、わが国における近代建築設計の発展発達に多大の貢献をした功による受賞。所員を前に、「僕一人の名誉ではない。建築家全部の名誉である」と語った。
- 1963:昭和38年(69歳)
- 11月27日死去。
- 残された事務所はこの時点にあって、組織化法人化に移行して以来10年以上が経過し、組織化された建築設計事務所としての成長も軌道に乗っており、それまでと変わらない組織力で一路故人の理想をついで発展成長しつづけて行くのである。これこそ故石本喜久治の卓越した先見の明とその経営に対するすぐれた識見にもとづく、つとにその今日にそなえた組織づくりを軌道に乗せた卓抜した経営的手腕に負うものであった。 KI倶楽部のメンバーたち
作品とエピソード
石本喜久治の厳しい訓育
- (1) 出勤時間厳守、事務所内での雑談、喫煙の禁止。(現在でも3時に10分の休憩時間が設けられているが、当時の喫煙時間として認められていたものの名残である。)プライベート電話の禁止。社内規則は厳しかったが誰も守っていなかったとは山口文象氏の談。が、また一面所員に対し細かい心遣いもあり、大陸から土産にもらったネクタイ等も、一人一人の好みや配合を心得たセンスで選ばれたものである、とは武基雄氏。
- (2) 当時の先生の次のような言葉は、私のなかに深く刻みこまれて今日におよんでいる。「原図を損傷しないよう大切に扱うこと」「青図の処理に留意し秘密義務を守ること」 (海老原一郎「50年の軌跡」)
- (3) こんなところが外から見ると「石本喜久治の極端な独裁性と事務所内部に対する非常な抑圧的厳格さであった。石本建築事務所のこの傾向が著しく封建的ファッショ的と受け取られ、若い建築家の育たんとする芽をつんでしまうものと批判され」(福田欣二「50年のあゆみ」)ることになったのかもしれない。
- (4) しかし、「昔から世間には石本事務所に3年勤めた者ならどんなことに面してもつぶしがきくといわれていた。この時なお百数十名の出身者が建築設計業界の第一線で働いていることも、これが立証されるところである。」 (吉岡政男「50年のあゆみ」)
KI倶楽部のメンバーたち
事務所に「KI倶楽部名簿」なるものが残っている。KI倶楽部とは石本建築事務所のOB会のようなものであったらしい。その中には、山口文象(後、RIA建築綜合研究所)、西山卯三(後、京大工学部建築学科教授)、武基雄(後、早大理工学部建築学科教授)、立原道造(詩人)、海老原一郎(後、海老原建築設計事務所長)、柳瀬駿(後、工学院大学講師)、野崎謙三(後、山下寿郎設計事務所社長)らの名前がある。なお、「KI倶楽部」の名称は現在、社員の交流のためのクラブ活動の名称として使われている。