1945

(昭和20年)

戦火の頃、
建築家としての使命

日増しに激しくなる空襲。しかし事務所を閉鎖するわけにもいかず石本喜久治はその葛藤の中にいた。

そして終戦。
東京駅八重洲口にただ一つ焼け残っていた武田京橋ビルの一角で業務を継続することになった。

焼土と化した都市を目の当たりにし、また、国家的要請や戦後復興院からの勧奨もあり、石本喜久治は1946年新日本住宅株式会社を創立する。
復興までの2年間をその社長として専念し、その間事務所の経営は長野八三二が任された。